
天気の子の帆高がうざい。なぜこういうキャラクターにしたのかとか、帆高関連で疑問もあるので考察した記事を読みたい。
という人のために「天気の子」の映画を観て小説も読んだブログ管理人シエン(@tetete437)が、帆高について疑問に思ったことを考察しています。
この「天気の子」の帆高関連の考察記事を読んでいただくと、
- 「なるほど!新海監督の意図はこういうことだったのか。」
- 「帆高、そんなにイヤなヤツではないかな。」
と思っていただけるようになるかと思います。
けっこういろいろ調べて帆高について考察したので、だいたい納得していただけるでしょう。
この帆高についての考察記事を読んで、

もう一度映画「天気の子」を観てみよう。
ってなってもらえると、うれしいです!
それでは「天気の子」の帆高についての考察記事をどうぞ。
ネタバレありです。
帆高の家出の理由が分からない。なぜ?→「わざとハッキリとさせていない。」
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「天気の子」がつまらないっていう理由の1つとしてよくあげられてたのが、
帆高の家出の理由が分からない
ってことでした。

なんで帆高は家出したの?
なんか日の当たる場所に行きたいみたいなこと帆高が話してたけど、そんな理由で家出する?
なんか適当すぎ。
という口コミが多かったです。
観客が自分の人生と重ね合わせやすくするために家出の理由はあいまいにした。
新海監督はわざと帆高の家出の理由を明確に描かないようにしたんだそう。
あえて主人公の過去を描かないことに賛同し、「絶対にいらないと思う」と後押しした川村は新海監督の意図についてこう語る。
https://eiga.com/movie/90444/interview/
映画.COMより引用
この映画.comの新海監督と河村元気プロデューサーのインタビューは非常に興味深くて面白いので読んでみてください。
あえて帆高の家出の理由をぼかすことで、観客が自分の人生と重ね合わせやすくすることを狙ったということですね。
そういえば僕も子どものころ父親に無理やり旅行みたいなのに連れていかれたとき、旅行先で父親から離れて歩いてどこかに行こうとしたことがあります。
途中であきらめたけれど、あの時あのまま歩き続けていたらどうなっていたかな・・・なんて思うこともありますね。まあたぶん探し回られたと思いますが。
よほどその旅行が嫌で仕方がなかったんだと思います(笑)
こんな感じで子どものころにちょっとした家出をしたことがある人は、けっこういると思います。
帆高は本当に思いっきり家出してしまったっていうわけですね。
小説版では帆高の家出の理由が少し分かる。
それで帆高の家出の理由をわざとハッキリと描かないことにした新海監督でしたが「天気の子」小説版では家出の理由がちょっと分かるようになっています。
あの日、父親から殴られた痛みを打ち消すように、自転車のペダルをめちゃくちゃに漕いでいた。
角川文庫小説「天気の子」206ページより引用
というように帆高は父親との関係がうまくいってなくて、殴らたこともあったということが分かります。
帆高の家出の原因は「小説天気の子」では父親と不仲だったからってことになっていますね。
帆高と須賀の関係は、もっと激しいものになる予定だった。
新海監督は「天気の子」構想初期は帆高と須賀の関係をもっと濃いものにしていたそうです。
当初、「父親殺し」のような濃密な関係性を割り振っていたという帆高と、彼を自身の零細編集プロダクションへ雇う須賀圭介(声は小栗旬)のあいだの描写も、より穏当なかたちに変更した
https://realsound.jp/movie/2019/07/post-394988.html
realsoundより引用
これらのことから分かるのは新海監督は「天気の子」構想初期のころ、
須賀圭介を帆高の父親のように描くことで、父と子の対決や葛藤を描き、そのことを解決する過程を見せるストーリーも考えていた
ってことなんじゃないでしょうか。
しかし新海監督は帆高の家出の理由をぼかして、須賀との関係もやんわりとしたものに変更しました。
その理由は、
作中で具体的な過去エピソードを描くよりも、まったく描かないことによって見る人が自分の人生で補完するようになればという話をしました。
https://eiga.com/movie/90444/interview/
映画.comより引用
ということなんですね。
- 登場人物たちの過去を描かない。
- 登場人物たちの関わりを深く描かない。
なぜそうしたかというと、帆高と陽菜2人の関係と「選択」により注目してほしいからなんでしょう。
主人公帆高に共感できない→「天気の子は教科書である必要はないから。」
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主人公の帆高に共感できないという口コミもけっこうありました。
あまりにも自分勝手だからみたいな理由ですね。
帆高のどういうところが自分勝手かというと、
- 雨が降り続けようが陽菜を救うことを選んだ。
- 銃を撃ったり線路を走ったりなど違法行為しすぎ。
といった部分です。
たしかに陽菜のことしか見えてない帆高って感じはしますね。
まあこれは映画というフィクションのなかでのことだし、あんまりギャーギャー言うことでもないんじゃないかなって思います。
それはそれとして、なぜ新海監督は帆高をこういう自分勝手で自己中心的な面もあるキャラクターにしたのかってことを考えたいです。
あと、これだけの違法行為をしながら保護観察処分となり故郷の離島で過ごすようにされただけって罪が軽すぎ!っていう声もありました。
言われてみればたしかにそうかも・・・と思うところはあります。
小説「天気の子」の158ページで須賀圭介の兄、つまり夏美の父親が財務官僚であることが書かれています。
財務官僚である須賀の兄は娘の夏美が弟の圭介の世話になっていることは、おそらく知っているでしょう。
娘の夏美が圭介に世話になっているから、圭介や帆高についてなにか口利きをした・・・なんて想像もできますね。
そうなると、ますます「天気の子」が教科書としてふさわしくない映画になってしまいます(笑)
子どもに悪影響がある?
たぶん、
- 銃を人に向けて撃とうと構える。
- 実際に発砲する。
- 他いろいろと違法行為をする。
っていうかなり重大な重い行為をしながら、のほほんと暮らして(離島での帆高の生活は描かれてないが。)最後は好きな人と再会!
なんてストーリーを子どもが観たら悪影響があるっていう考えからなのかもしれません。
子どもが重大な違法行為を軽々しく見るようになってしまい、
- 法律を守る大切さが養われないのがダメ
- 愛する人のためなら法律をやぶってもいい
って思ってしまうとか。
こうした批判が出るのは「天気の子」は”夏休みに親子で観に行く映画”っていう位置づけになっているからなんでしょう。
映画は学校の教科書ではないと思いいたって制作された「天気の子」
このあたりのことについては新海監督が「天気の子」制作のときに心に決めたことが関係していると思います。
小説の天気の子のあとがきで新海監督は、
「映画は学校の教科書ではない」
小説「天気の子」295ページより引用
ということを心に決めたと書いています。
つまり、
「天気の子」だけを観て子どもは成長するわけじゃないから「天気の子」が”教科書”である必要はない
ってことなんでしょう。
親や学校がちゃんと法律を守る大切さを子どもに教えていますよね。
少なくとも学校の国語の教科書に「天気の子」が載ることはないはず。
なぜ新海監督は「天気の子」で一部の人に反感を買うような脚本にしたのでしょうか。
帆高が理想的な「いい子」だったら天気の子は面白くならなかっただろう。
もし帆高がばっちり法律を守り品行方正で周りへの配慮を欠かさない理想的な少年だとしたら「天気の子」は面白い映画になったでしょうか。
そういう帆高が主人公だと、いろいろ言われないかわりにどこか丸く収まってしまって、いまひとつ突き抜けたものがないありきたりな映画になってしまったかもしれません。
そうなるとあの新海誠監督の映画だってことで最初は興行成績がグーンと伸びたのに、しばらくしたらガクンと落ちるなんてことになってたんじゃないでしょうか。
線路を走る帆高を誰も捕まえようとしない→「そういう指示が出ていた。」

映画「天気の子」後半で帆高は線路の上を長距離走ります。
その時、線路の作業員たちが線路の上を走る帆高を止めに行かず見ているだけという状態なんですね。
このシーンを観た人のなかには線路の上を走る帆高を作業員が止めないのは不自然だと感じた人がいるみたいです。
僕もそう感じました。
なかには帆高が線路の上を走り続けるという感動的なシーンを作るために不自然なことになったのではと考える人もいるみたいです。
小説版の天気の子を読んでると、こういう記述があることを発見。
「無断横断の一般人と思われます。安全を最優先し、確保は鉄道警察に一任してください」
小説「天気の子」247ページより引用
つまり、帆高は鉄道警察が捕まえるから、作業員たちは手を出さないように言われていたということなんです。
作業員が帆高の確保に動くと作業員に危険が及ぶ考えから、鉄道警察が確保するという方針になったってことなんでしょう。
復旧作業中で電車も走ってないし1人の少年を捕まえようとするよりも、各作業員は復旧作業に専念したかったのではないでしょうか。
東京を水没させたのに、なんの反省もない帆高が自分勝手すぎる→「帆高はしっかりと自分の選択を受け入れている。」

帆高が東京に雨が降り続けてもいいという選択をしたために東京は水没することになります。
- 陽菜を救う決心をするときに帆高はほとんど葛藤してない
- 東京水没後、帆高は後悔してない
という声があります。
帆高にもっと悩んでほしい、もっと後悔してほしいということですよね。
帆高は陽菜を助けるのか東京の天候が正常に戻ったままにするのか、迷ってないように見えます。
帆高が迷わず陽菜を助けることにしたのは、陽菜と過ごした日々が一番幸せだったから。
なぜ帆高は迷わなかったのか。
雨が降り続く東京で陽菜と過ごした日々が、帆高の今までの人生の中で一番幸せだったからではないでしょうか。
新海監督は帆高の迷いのない選択を見せることで、まずは自分の幸せを大事にしてほしいというメッセージを観客に届けたかったのかもしれません。
帆高が自分勝手だと言われればたしかにそうかもしれませんが、今の世の中自分を犠牲にしすぎる人が多いと新海監督は感じていそうです。
雨が降り続く東京でも、帆高は陽菜と一緒ならそれでいいと心の底から思えたのでしょう。
異常気象を招いたのは多くの人々の暮らし方が原因の1つと考えられます。
それなのに陽菜1人が犠牲になってもいいなんておかしいとも、帆高は感じたのではないでしょうか。
それこそみんな自分勝手なわけです。帆高も含めて。
みんな誰かの犠牲の上で生きている。
帆高が線路の上を走るという場面があります。
小説版では、線路の上を走る帆高を見た通行人が笑ってたり嘲っていたりするというふうに書かれています。
嘲る(あざける)とは、人の悪口を言ったりしてバカにして笑っている様子のこと。
映画版では線路の上を走る帆高を通行人が、ものめずらしげに見ているだけだったようですが、じつは線路の上を走る帆高をバカにして笑っていたってことですね。
そんな通行人の様子を見た帆高が、
皆、なにかを踏みつけて生きているくせに。誰かの犠牲の上じゃないと生きられないくせに。
小説「天気の子」247ページより引用
そしてそれは、僕も同じだ。
と心の中で帆高は思うんです。
皆も帆高と同じように誰かの犠牲の上で生きているのに、帆高を見てバカにして笑う資格なんてないってことなんでしょう。
バカにして笑うのではなく、あの少年はどんな事情があって線路の上を走っているのかと考えることができる人が、自分は誰かの犠牲の上に生きていると自覚できている人っていうことなのかな。
映画版では、帆高が線路を走る場面で帆高がそんなことを考えているなんて思いもしませんでした。
この天気の子小説版で帆高が線路の上を走るシーンでの帆高の心理について、新海監督が読者に伝えようとしていることはなんなのか。
いまひとつ分かりにくいですよね。
僕が考察してみた結果は上に書いたようなことでしたが、まだストンと納得できてないですね。さらに考えてみたいところです。
【考察】この「便利な暮らし」が誰かの犠牲で成り立っているとするなら、それはいいいことなのか。
「晴れ」っていう部分を「便利な暮らし」と置き換えて考察してみます。
誰かが犠牲になることで、この便利な生活が維持されている。
こういったことって私たちの暮らしのなかでも、けっこうあることだと思います。
- 翌日配送じゃなくてもいいけど、できるならしてもらおうかな。
- 台風が来てても、台風が過ぎた翌日に商品を並べるために危険ななかトラックで配送する。
などなど、物流のことを書きましたが、こうした「便利さ」は誰かが犠牲になって成り立っている可能性が高いですよね。
大企業だし従業員とか取引先に無理強いするようなことはしてないんじゃないかな…と思ったりしますが、そうでないケースもありえるということです。
世の中がまだまだ便利ではなかった昔だと、「人々の暮らしを豊かにするために」ってことで、こうした犠牲は美談として語られることが多かったのでしょう。
しかし今の時代、十分快適な暮らしを多くの人が送れるようになり「便利」なことが当たり前になっています。
当たり前になっているけれど消費者としては、
- 「便利さ」が過剰になっていないか
- 「便利さ」を維持するために知らないところで誰かが犠牲になっていないか。
といったことも考えてみたいです。
今の時代、「便利さ」によって誰かが犠牲になっているんじゃないかと考える人が多くなっているのでしょう。
働く人も消費する人も、みんななるべくハッピーに過ごせるようになりたいものですよね。
働く人は消費者にもなるし、消費者のほとんどの人は働いている人でもあるわけですから。
小説「天気の子」は映画版よりも登場人物の内面が分かる
小説版ではこのように登場人物の心のなかの声も文字で書き表しているので、新海監督がどういった意図で制作したのかが映画版より分かりやすくなっています。
「天気の子」について、もっと深く知りたい人は小説版は読んでおいたほうがいいですね。
「天気の子の帆高うざい・幼稚で性格がクズで嫌いになる理由。」まとめ
ということで「天気の子」の帆高についての否定的な口コミに対しての考察をしてみました。
まとめると、
- 帆高の家出の理由が分からない。なぜ?→「わざとハッキリとさせていない。」
- 主人公帆高に共感できない→「天気の子は教科書である必要はないから。」
- 線路を走る帆高を誰も捕まえようとしない→「そういう指示が出ていた。」
- 東京を水没させたのに、なんの反省もない帆高が自分勝手すぎる→「帆高はしっかりと自分の選択を受け入れている。」
といったところです。
「天気の子」は、新海監督は観客からの反感もあるだろうことを分かったうえで制作したみたいですね。
たしかに、帆高が
- 銃を撃つ
- 東京を水没させる
といった良いとは言えない行いをしてしまうのは、夏休み子供向け映画という面もあった作品としては異例のストーリーですよね。
「バーニラ、バニラ」も出てくるし陽菜や帆高、凪が泊まるところがああいうホテルだし、なかなか思い切った部分まで描いています。
そんな反感を買うだろう作りであっても「天気の子」は風景描写やテーマなど、総合的に素晴らしい、すごい映画ですね。
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